お粥を愛している

自分を救いたい文章です。

とある教員が書いた卒業文集

卒業文集に載せた文章です。誰かひとりに届けばいいなと思って書きました。

こちらは2019年のものです。

 

 忙しい毎日をやり過ごしながら、「弱さ」について考えている。少し嫌なことがあった日、天ぷらを食べたら油の濃さで吐いた。身体も心も弱くなったなあと感じた後、そうだ自分はもともと弱い人間だった、と吐きながら考える。

 この世界で「弱さ」は欠点として指摘されるものである。軽いミスで深く落ち込むと「そんなことで落ち込むの?」。誰かの言葉の裏の意味を想像して怯えていると「自意識過剰だよ」。そんなことはいくらでもある。「この人は弱い人間だ」とみなされ、時に「面倒くさい人間だ」と思われ、気がつくと世間と自分の間にうっすらと膜がかかっている。いつの間にか世間に取り残され、こうなったのは自分が弱いせいだと自分を責める。そういえば、何かのせいにしたがるのは弱さの証である、と誰かが言っていた。「弱さ」は生きづらさの象徴である。

 私が自分の「弱さ」に気付いたのは小学生の時だった。クラスでいない存在として扱われた時、消えてしまいたいと思った。周りと戦うという選択肢を持てない自分が嫌で、強くなりたいと思いながら十年近く生きてきたが、なぜか変わることができない。今でも何か苦しいことがあると、ふと消えてしまいたいと思うことがある。自分は小学生の頃から何も変わっていないことについこの前気がついた。本当に私は、どうしようもなく弱い。弱い自分が嫌いで、泣いても喚いても何も変わらないまま朝が来る。そんな日々を繰り返す中で「弱さ」は直すことのできる欠点ではなく、私の一部である、と少しずつ認識し始めた。

 しかし「弱さ」がもたらしたのは悪いことばかりではない。無理に人と関わるのをやめ、本や音楽、自然の中に身を置いた時、言葉の持つ力やこの世界の美しさに魂が震えた。寒くて何の音も聞こえない暗闇の中で、何時間も空に瞬く星を見ていられた。大好きな本を読んでいる間、私は世界で一番幸せだった。強くなることはできなかったが、世界は素晴らしいものであふれていることを知った。今、私は、この感受性の豊かさを誇りに思う。「弱さ」を抱えた私のままで生きていたいと強く願っている。

強く賢く、鈍感であることが求められる世界で私はそれらを何ひとつ持っていない。弱い私のまま、社会に紛れて生きている。きっと卒業していくあなたたちもそれぞれの「弱さ」を抱え、もがきながら前へ進もうとしているだろう。どうかあなたたちが、自分のままで生きていけますように。自分の中にある「弱さ」を否定して、自分自身を否定しませんように。そんな願いを込めて、あなたたちの門出を祝福します。卒業おめでとう。

 

卒業シーズンですね。「がんばれ」も「あなたたちならできる」も違うなと思い、等身大の自分を書きました。自分でも気に入っている文章です。どこかの誰かへ届きますように。