お粥を愛している

自分を救いたい文章です。

でも休職しました

かつて、なりたくない職業の第一位は教員だった。

 

小学生の頃、クラスで無視されていた時に隣のクラスに避難していたら、苦手な教師に「…お粥さん!」と睨みつけられたことがある。休み時間中だった教室は静まり返り、クラスの注目を集めた。(当時は「他のクラスに入ってはいけない」という謎ルールが存在した。今はそんなルールは撤廃されていることを願う)

クラスに居場所がないことがたくさんの人にバレたような、そんな恥ずかしい思いをした私はその時に思ったのだ。教員など絶対になりたくないと。

 

中学時代も謎の校則に縛られた三年間を送り、教師に対する不信感を募らせ、順調に教員以外になるをルートを歩もうとしていた。

三年生になって「お前の学力じゃ公立なんて行けない」と親から言われ、なるほどなと納得しながら入った私立高校で世界が一変する。

 

高校に入ってから、私は教員と保護者と生徒が一体となって私学の無償化を訴える活動に参加することになった。半ば無理やり参加させられたことを覚えている。

そこで見たもの、経験したこと、出会った人々は私の持っていた価値観を全てひっくり返していった。

 

私学の無償化を訴える運動だが、「全ての社会問題は地続きでつながっている」という考え方のもと、戦争や格差問題、震災、いじめなど幅広いテーマを取り扱った。

学力が全てで、無意味な校則に縛られ、得意なこともやりたいことも見つけられなかった私はそこで世界の広さと自分の無力さを痛感した。

 

自分が無力だと分かった瞬間、何かが吹っ切れたように人前に立つようになった。

がむしゃらと言う言葉が当てはまるだろうか。やけくその方が合うだろうか。

どうせ無力なら無力なりに足掻いてやろう、言葉が届く限り声を上げ続けてやるということで、最初は数人の前で、何十人、何百人、何千人の前で恐れることなく社会問題について声を上げ続けた。若さってすごいなと今更ながらに思う。

 

「社会的弱者に重荷を押し付ける社会の構造を変えたい」という思いで活動を続けた結果、何より変わったのは自分自身の生き方だった。

 

そうだ、教師になろう。

 

高校三年生、当時の私は恩師に連れられ、全国の私学教員の前で今までの活動報告をすべく大阪にいた。無事に活動報告を終え、質疑応答に入った時、誰にも言ってなかった気持ちがふと湧いて出た。

そこで、全国の教員の前で、言い放ってしまった。

「いつか教師になってこの場所に戻って来ます」と。

 

今の私なら全力で止めているが、今の私が全力で止めたところで当時の私は聞く耳を持たなかっただろう。若さというのは本当に恐ろしいと思う。

 

しかし、仕方がない。

社会を変えるために自分にできることは何かを考えた結果、「教育だ」と思ってしまったのだ。その考え方については異論はない。

こうして、高校三年生の時、私の進路は決まった。若さというエネルギーをもってして無理だと言われていた大学に無理やり合格し、苦手な勉強に取り組み、今に至る。

 

ここで一度、タイトルに戻ってほしい。

 

人生そううまくはいかないものだ。

この続きはいつかまた書きます。

星を灯す

大好きな本を読み終えた。いや、大好きになった本だ。

昔から、好きだな、と思った本を読むと「心に星が灯る」または「美味しいものをお腹いっぱい食べた後」のような感覚になる。

今は、前者のほう。胸の内側に自分だけの星が生まれて、それが人知れず輝きを放っている感じ。登場人物一人ひとりが星座のように結ばれている。

そんな感覚が私をひとりにするし、孤独からは解放してくれる。

 

 

本を読むことはすごいことでも何でもない。孤独やら自己嫌悪やら得体のしれない不安感やら、そういうものから解放される手段のひとつであると私は認識している。

だから本を読むことを褒められる時、いつも居心地が悪い。本を読んでいるのに教養が無くてすみません。といつも心の中で誰かに謝っている。

 

それなのに、本を読む自分を誇らしく思う自分もいる。

いつか、職場のスポーツ好きな同僚に「スポーツ観戦をしたことがない」と言ったら「それは人生の半分損してる!」と言われたことがあった。余計なお世話過ぎてろくに言い返すことが出来なかったが、あの時私は確か「その分本を読んでいるから損なんてしてない」みたいなことを言い返した気がする。とっさに出て来た、スポーツに対抗できるものの代表が本だった。

 

スポーツは苦手で、好きになれたことはない。けれどスポーツができる人に対する尊敬はある。だから決してスポーツの悪口なんて言いたくないのだが、その時ばかりは「このスポーツ馬鹿が」と言い返したくなってしまった。いや、スポーツは悪くない。悪いのはあの失礼な男だ。

しかし、人生の半分も損しているだなんて。

 

好きな本に出会って夢中になるあの時間は、私の人生で有り余るほど幸せな時間だった。私の人生の半分は本に救われたと言っても過言ではない。だからそんなことを言われて心底腹が立ってしまったのだ。大好きな本ごと貶された気がした。

そもそも人の人生の価値を勝手に決めつけるような行為そのものに問題があるのだが、とにかく私は怒っていたし今でも新鮮な怒りが湧いてくる。

 

私は今でも本に救われる。物語が心のうちに刻まれる度、自分の存在価値とかそういうものが心底どうでもよくなる。この世に生まれてよかったと思うことができるのだ。

それが「心に星が灯る」感覚なのだと思う。

 

読んだ本の題名は凪良ゆうの『汝、星のごとく』と『星を編む』でした。

なんかベタすぎるかなと思ったけれど、でもいい。良い本に出会えました。

とある教員が書いた卒業文集

卒業文集に載せた文章です。誰かひとりに届けばいいなと思って書きました。

こちらは2019年のものです。

 

 忙しい毎日をやり過ごしながら、「弱さ」について考えている。少し嫌なことがあった日、天ぷらを食べたら油の濃さで吐いた。身体も心も弱くなったなあと感じた後、そうだ自分はもともと弱い人間だった、と吐きながら考える。

 この世界で「弱さ」は欠点として指摘されるものである。軽いミスで深く落ち込むと「そんなことで落ち込むの?」。誰かの言葉の裏の意味を想像して怯えていると「自意識過剰だよ」。そんなことはいくらでもある。「この人は弱い人間だ」とみなされ、時に「面倒くさい人間だ」と思われ、気がつくと世間と自分の間にうっすらと膜がかかっている。いつの間にか世間に取り残され、こうなったのは自分が弱いせいだと自分を責める。そういえば、何かのせいにしたがるのは弱さの証である、と誰かが言っていた。「弱さ」は生きづらさの象徴である。

 私が自分の「弱さ」に気付いたのは小学生の時だった。クラスでいない存在として扱われた時、消えてしまいたいと思った。周りと戦うという選択肢を持てない自分が嫌で、強くなりたいと思いながら十年近く生きてきたが、なぜか変わることができない。今でも何か苦しいことがあると、ふと消えてしまいたいと思うことがある。自分は小学生の頃から何も変わっていないことについこの前気がついた。本当に私は、どうしようもなく弱い。弱い自分が嫌いで、泣いても喚いても何も変わらないまま朝が来る。そんな日々を繰り返す中で「弱さ」は直すことのできる欠点ではなく、私の一部である、と少しずつ認識し始めた。

 しかし「弱さ」がもたらしたのは悪いことばかりではない。無理に人と関わるのをやめ、本や音楽、自然の中に身を置いた時、言葉の持つ力やこの世界の美しさに魂が震えた。寒くて何の音も聞こえない暗闇の中で、何時間も空に瞬く星を見ていられた。大好きな本を読んでいる間、私は世界で一番幸せだった。強くなることはできなかったが、世界は素晴らしいものであふれていることを知った。今、私は、この感受性の豊かさを誇りに思う。「弱さ」を抱えた私のままで生きていたいと強く願っている。

強く賢く、鈍感であることが求められる世界で私はそれらを何ひとつ持っていない。弱い私のまま、社会に紛れて生きている。きっと卒業していくあなたたちもそれぞれの「弱さ」を抱え、もがきながら前へ進もうとしているだろう。どうかあなたたちが、自分のままで生きていけますように。自分の中にある「弱さ」を否定して、自分自身を否定しませんように。そんな願いを込めて、あなたたちの門出を祝福します。卒業おめでとう。

 

卒業シーズンですね。「がんばれ」も「あなたたちならできる」も違うなと思い、等身大の自分を書きました。自分でも気に入っている文章です。どこかの誰かへ届きますように。

言葉にしておきたいこと

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「プロポーズどっちからしようね」


普段、どんな些細な内容でも(時に涙が出るほど)お互いが納得するまで話し合う私たち、プロポーズもサプライズ制ではありません。(?)

したい派?されたい派?私はしたい派かな、私はされたい派、じゃあ決まり、どうやってプロポーズしよっか

そんな話をする時間が何より幸せでした。一緒に暮らして、私が病気になってからは彼女と生計を共にし始め今、自分の人生が自分だけのものではなくなってきていると肌で感じています。


けれどやはり、「二人セットでこの社会に存在する未来」を想像しようとするとまるで夢物語のような、叶うはずのない理想を語る時のような虚しさが影を落とします。


この国で私と彼女は結婚できません。

それは、結婚できないという事実だけがあるという意味ではありません。


かつての職場である学校現場で、私は自分の性的指向を生徒にカミングアウトしようと思い立ったことがありました。

自分自身についてカミングアウトをすることが、教員の多様性を公にすることが、学校そのものを変えていくきっかけになると考えたからです。

しかし、私の勤めた二つの学校は、それを許してはくれませんでした。


「子供は理解すると思うけれど、親からの反応がどうなるかわからない」

「子供より先に職場の人達にあなたのことを理解してもらう方が先じゃないか、どうやって職場の人たちに説明するつもりなのか」


そう言われ、当時の私は言い返すことができず「先輩方は親のクレームから私を守ろうとしてそう言ってくれているのだろうな、先生方も忙しいのに若手が好き勝手やるのはよくないな」と納得しようとしました。

ですがなぜか涙が溢れて止まりませんでした。

今ならその理由が分かります。


私のカミングアウトを「迷惑だ」と伝えるためにわざわざ学校に連絡してくる人がいるような世の中だということ。

そんなおかしい状況に立ち向かうより、私の存在を隠す方がいいと判断されたこと。

知らないことの方が多い子供より、さまざまな情報にアクセスできるはずの大人全員にわざわざ説明して「受け入れられなければならない」こと。


私は、子供たちに「あなたは一人じゃないし、世界はとても広い。異性を愛することだけが正しく普遍的なことではない。」と伝えたい一心でした。

LGBTQ +についての話をした後に目をキラキラさせて「先生になら話せる」とカミングアウトしてきてくれた子、泣きながら片想いの相手について話してくれた子、自分のセクシュアリティについての悩みを打ち明けてくれた子。

そんな子を一人でも見つけて、その子が自分を解放する手助けをしたかった。


世の中の現実を見せつけられたような気持ちでした。

「あなたたちの存在はまだ社会から認められていないんだから、わきまえなさいね」と。


考えてみれば当然のことです。

同性婚は、法律で認められていないのだから。


自分が当事者になってみて、異性を好きになっていた頃の自分には想像もつかなかった現実にぶつかって愕然としました。


心から愛する人と出会えて幸せだ、それでいいじゃないか。ずっと仲良くいられたらそれで十分幸せじゃないか。

そう自分に言い聞かせたこともありました。


しかし私と彼女は、いや、この世の全ての人々は社会と関わっていなければ生きていけません。人間の営みの全ては社会と関わる中で積み上がっていくものです。


その社会から、「同性を愛する者」というだけで弾かれることがある。

それを実感したのはこの経験だけではありませんでした。


同性婚を認めたら国が滅びる」という政治家の発言

同性婚を頑なに認めようとしない政党が勝利した衆議院選挙

長年連れ添ったパートナーが大怪我して入院しても「家族ではない」という理由で面会を拒絶された同性カップルのニュース

その他日々自分の身にふりかかるマイクロアグレッションの数々


そうしたひとつひとつのことは確実に私の中へ積もっていきました。


社会から「結婚おめでとう」と祝福される異性カップルの隣で、社会から「あなたたち二人は赤の他人ですよ、わきまえてくださいね」と言われ続ける人生がこの先も続いていく。何年寄り添っても社会からそう言われ続ける。

それが「同性婚が法制化されないということ」だと実感しました。


同性婚を反対する方々の意見はさまざまです。法整備には膨大な労力がかかる、わざわざ結婚にこだわる必要はないだろう、同性婚は家族の根幹に関わる問題だから慎重にならなければならない、友情結婚が増える、養子縁組があるじゃないか、海外に行けばいいだろう、小児性愛者も結婚できるようにしろということか、等々

そのひとつひとつ全てに言いたいことがありますが(特に小児性愛云々については【嗜好】と【指向】は違うものだと強く言いたいです)、


何よりも「自立した人間同士がパートナーシップを組んで共に生きていくことに、性別の組み合わせで社会的に良し悪しを分けるこの不均衡をどうにかすべきだ」と主張したい。


同性婚が法制化されて20年経ったオランダで同性婚にまつわる犯罪が多発しているニュースなど聞いたことがありません。


現行の結婚制度を全面的に肯定しているわけではなく、ただひたすら、この不均衡をいい加減どうにかしたいと願うのです。


そんなことをもやもやと考えていたところで、LUSH https://weare.lush.com/jp/lush-life/our-giving/campaigns/marriage-equality/?_gl=1%2a5t5lhx%2a_ga%2aNjM3NzY0NDA2LjE2NDc2ODc0MDE.%2a_ga_E68EJV3RYF%2aMTY0Nzg1MzU2My4zLjAuMTY0Nzg1MzU2My4wが本当に素敵な取り組みをしていてめちゃくちゃ元気が出たので「このもやもやを言葉に残しとこう!!」と思った次第です。

赤いハートに🟰のマークが付いた激かわなチャリティーソープ、消費税を抜いた全ての売り上げが「Marriage For All Japan 結婚の自由を全ての人に https://www.marriageforall.jp/blog/20220310/という団体に寄付されるとのこと。


店員さんもすごく一生懸命に同性婚のことをお客さんに説明しているらしく、ここ最近で一番元気付けられました。


私たちは同情されたいわけでも応援されたいわけでもありません。

「がんばってね」は観客席側の言葉だけれど、「がんばろうね」は同じ土俵に立つ人の言葉です。連帯してくれる人が多ければ多いほど、私たちは未来に希望が持てます。

こんなふうに、誰かからの批判が飛んでくる可能性があっても言葉にしようという勇気も湧いてくるのです。


これを読んで「知らないことがたくさんあるな」と思った方は、ぜひ自分で調べて、知ってほしい。(Marriage For All Japan 結婚の自由を全ての人にhttps://www.marriageforall.jp/blog/20220310/

「何かできることがあるかな」と思った方は、次の参議院選挙で同性婚に賛成する政党に票を入れてほしい。

当事者に「がんばれ!」と声をかけるよりも遥かに当事者の力になれることがあります。


ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

最近は悲しいニュースばかりで気持ちが沈んでいましたが、LUSHの取り組みのおかげでこうして気持ちを言葉にすることができました。

(ボディソープ買えなかったけど店舗に行ってパンフだけ貰ってきた、て投稿も見てめっちゃ元気でた🥲


体調の問題で店舗に行けるかどうかはわからないけど、せめて何か自分にできることをしたい、誰かに伝えたい、未来の自分にメッセージを残したい、色んな気持ちでこれを書きました。


どうかどうか、日本で同性婚ができるようになりますように!

毎日毎日、切実にそう願っています。


#結婚の自由を全ての人に